ある日の朝。慎太郎はその光景を前に我が目を疑った。もっとも、当人達もしばし、信じられない物を見たように互いに硬直していたが。 即ち、朝稽古の最中に、腹に胴を決めた娘と、決められた以蔵とが。
透明な力
「はぁ?以蔵が弱くなったぁ?」 娘がまだ来る前の朝餉を取る部屋で困り顔をした慎太郎の話を聞き、龍馬は一瞬、眼を瞬いたがすぐに腹を抱えて笑い出した。すでに運ばれていた膳を蹴飛ばさないよう、武市がすっとそれを遠ざける。 「ちょ、何で笑うんスか!」 「これが笑わずに居らりょうか!のう、武市!」 しかし、武市の方は厳しい表情のまま腕を組んだ。それはそうだろう。手塩にかけて育てた弟子が、よりによって『弱くなった』となれば忌々しき事態である。 何より慎太郎が憂慮しているのは、以蔵が使い物にならないとなれば、自分達の戦力が大幅に減退してしまう点だった。 おそらく、まだまだ剣によって無理やりにでも道を切り開かなければならない局面は訪れるだろう。その時、以蔵を頼れないのは正直言って痛手だ。 もっとも、そうした対面的な問題以上に友人として心配している。何しろ、以蔵は自身を武によってのみ成り立たせていると言っても過言ではない。頼みきっている、とも言えるだろうか。 その唯一と言って良い拠り所を失ってしまったら、あの男はどうなってしまうのか。 故に、慎太郎は一笑に伏した龍馬に対し、少なからず怒っていた。しかし当の龍馬はと言えば、そんな慎太郎の心中を察しない訳でも無かろうに、それでもまだ、楽しげに笑っている。 「冗談じゃ無いんスよ!以蔵くん、ここ最近、ずっと姉さんに負けてるんス!一本も取れないんスよ!」 以蔵は、相手が女子であっても、立合いには手を抜かない。慎太郎の知る限り、女子としてはそれなりの腕前の娘であっても、以蔵を凌ぐほどの腕では無かった。もし仮に朝稽古のおかげで上達したにしても、毎日鍛錬を欠かさない達人に追いつくなど不可能だ。 ならば、結論は一つだろう。 慎太郎は、尊敬する龍馬がまともに取り合ってくれなかった事に肩を落とした。丁度良く身支度を終えた娘が現れたので、この話はそれまでとなったのだが、以蔵は結局、その日の朝餉には姿を見せなかった。
昼、慎太郎が以蔵の姿を探してうろうろしていると、庭先から威勢の良い掛け声が聞こえた。男よりもずっと甲高いそれを、聞き間違う筈が無い。行ってみると、果たして、娘が竹刀を構えていた。真剣な眼差しの先に居るのは、何と龍馬だ。 気合いは感じられるが何処か追い詰められた気色の娘と対照的に、龍馬は片手で実に気楽な構えだった。縁側でそれを眺める武市に近寄り、慎太郎も勝負の行方を見守る。 ふっと、娘の呼吸が変わった。娘が裂帛の気合を持って、龍馬の間合いに踏み込む。 「あ」 慎太郎は思わず声を上げた。確かに、見事な踏み込みだった。だが、娘の胴には、龍馬の竹刀が当たるギリギリの所でぴたりと制止していた。 「あーあ、やっぱり龍馬さんには敵わないなぁ」 龍馬の眉間、残り拳一つ分くらいの中空に制止していた切っ先を、笑顔と共に娘が下げる。寸止めが出来ると言う事は、少なくとも龍馬の竹刀が先に決まった事を判断出来たと言う事だ。確かに、間違い無い無く娘の剣の腕は上がっている。だが、それでも以蔵よりも上かと聞かれれば、慎太郎は首をかしげてしまう。それは武市も同じだろうが、彼は渋い顔のままだった。 「以蔵のようにはいかんかのぅ?」 とんとんと手にした竹刀で肩を叩きながら笑う龍馬に、娘は一転してぶすっと頬を膨らませる。 「以蔵は、手を抜いてるだけです」 「ほぅ?」 「だって!以蔵なら絶対、ここで決めてる!ってトコでも、剣を引いちゃうんですよ!あんなの手加減じゃないです!」 おそらく、以蔵に勝つようになってから、ずっと心の奥にあった蟠りだったのだろう。食ってかかるような勢いの娘の頭を、龍馬はぽんぽんと軽く叩いた。 「以蔵にそんな器用な真似は出来ん」 「でも・・・じゃあ、どうして?」 「そりゃあ、本人が一番知りたいじゃろうなぁ・・・。慎太郎、ちくと悪いが、以蔵を連れて来てくれんか?どうせ裏の井戸の辺りに居るじゃろ」 「え?あ・・・はい!」 訳が分からないまま、慎太郎は言われた通りに若干背中の丸い以蔵を引っ張って来た。 「・・・何だ?」 明らかに不機嫌そう・・・と、言うよりも、完全に意気消沈している。身体が大きな分、項垂れると一層みすぼらしさが哀れを誘う。 「以蔵、今からワシ等と勝負じゃ」 「は?」 これには、傍観を決め込んでいた慎太郎と武市もポカンと口を開けた。 「等?と言う事は、僕達もか?」 「おう、その方が効果的じゃき」 一人、訳知り顔の龍馬を相手に皆の理解がついて行かない。 「三番勝負で、以蔵対、ワシ等三人じゃ」 「ええっ?!三対一ですか?!龍馬さん、いくらなんでもそれは」 「心配せんでも大丈夫じゃ。今から、面白いモン見せちゃるき」 「へ?」 ニヤリと口の端を持ち上げた龍馬の意図を測りかねていると、手を掴まれぐいと引き寄せられた。 「勝ったモンにゃ、こん娘に何か一つ、頼みごとをしてもええっちゅーのでどうじゃ!」 「え!」 「おい龍馬!勝手な事を言うな!」 訳も分からず成り行きを見守っていた以蔵が、声を荒げる。ちらと娘に視線をやり、きっと龍馬を睨みつけた。 「何事も、賞品があった方が気合いが入るからのぅ」 「ふざけるな!」 二人が押し問答をしている間に、武市が慎太郎に何やら耳打ちをする。 「・・・ああ・・・成程・・・」 「そう言う訳だ。つまり――」 「龍馬さん!乗ったっス!」 「慎太!?」 「僕もだ」 「先生まで!」 狼狽した以蔵が、最終的には助けを請うように娘を見た。 「え?私は別に良いよ?あんまり難しいお願いじゃなければ」 その瞬間、多数決以上の意味を持って決定が下った。以蔵が愕然としたのは言うまでもない。
「・・・あれ・・・?」 勝負の結果に、娘は唖然としていた。肩で息をし、竹刀を杖のようにしてどうにか立っているよれよれの以蔵。そして、同じように苦しげに息をつきながら地面に転がる三人。 「ぜぇっ、ぜっ、ぜっ、ごほ・・・おい・・・桶に水汲んで来い・・・全員の頭からぶちまける・・・」 「え・・・あ、うん!分かった!」 弾かれたように走り出す娘を見送り、以蔵もそこにペタリと尻もちをつく。 「俺は・・・」 自分の、ごつごつの手の平をしげしげと眺める以蔵に、龍馬達が突然、声を上げて笑いだした。 「な、何だ!」 「くくく・・・これが笑わずに居れるか!のう、武市、中岡!」 「ああ、全くだ」 「そうっすね」 真っ赤になった顔で笑い転げる仲間達を眺め、以蔵は仕方なく隠れるように両手で頭を抱えた。 冗談じゃない。冗談じゃないと思っていた事が、事実だった。 困り果てた以蔵の元へ、娘が駆け戻って来た。 「はい、お水!頭からかけちゃって良い?」 「ああ」 冷たい水を頭からざぶりと浴びても、頬の熱は一向に引かない。他の三人にも水を与える娘の姿を目で追い、もう一度、掌をみやる。そして出て来たのは、柔らかい苦笑だった。 「賞品なんだが・・・」 「あ、そうだったね。何が良い?」 しゃがみ込んで問うてくる娘に、そっと手を伸ばす。反射的に差し出し返した娘の手を握る。 「俺と・・・俺と、もう一度勝負してくれ」 期待に満ちた目で見つめていた慎太郎がガッカリした顔をしたのが目の端に映ったが、龍馬や武市は楽しげなままだった。
翌日、娘の見事な飛び込み面が決まる軽快な音が庭先で響いた。 「い、以蔵!大丈夫!?」 そのままひっくり返った以蔵の元へ、娘が慌てた様子で駆けて来る。それを見上げ、しみじみと思い知らされた。 「いや、大丈夫だ」 ――お前には、敵わないと分かったから―― その呟きを、以蔵は大切に胸の内に仕舞った。
〜終わり〜 |